Interview vol.1

『モルダウのアーカイブス・シリーズはデモテープ集ではない。その当時の完結した作品たち、なんです』


■かしぶちさんが自分で曲を作って歌い始めた頃というのは、将来プロのミュージシャンになってそれを発表したいという思いはあったんですか?

「ないないない(笑)。ミュージシャンになろうって気持ちは更々なくて、ようするにビートルズに憧れていたんですよ。60年代というのはビートルズの登場によって、ああいう風に自分で作って演奏して歌うという表現ができちゃうんだなっていうのを感じた時代じゃないですか。それまではクラシックだったりジャズだったり、日本の歌謡曲だと美空ひばりさんとか、音楽っていうとプロの音楽家がやるもんだっていう意識があったけど、ビートルズの出現で"なんだ、僕らもやる気になりゃできるのかな"っていうことを学んだわけですよ。それで、(自分も)作曲してみよう、演奏してみよう、人前で歌ってみようって気持ちになったんです。で、作ったとなると、それを残しておきたくなりますよね。それが『今日は雨の日です』や『つくり話』に入っている音源なんですよ」

■その頃というのは、もうテープ・レコーダーは一般家庭に普及していたんですか?

「いや、まだオープンリールだけで、それも高価な物でしたね。でもたまたま、家にポータブル・オープンリールっていう3.5インチの一番小さいリールしかかからない小さいテープ・レコーダーがあったんです。その時代って、音楽を録音するっていうよりも会話を録音したりとか、そういうのに主に使ってたんで、マイクなんかも小さいんですよ。だから『つくり話』のインナーにも書いてあるけど、一台だと当然、多重録音できないわけで、もう一台どっかから借りなくちゃいけない。それで近所にお金持ちの家があって、親同士が知り合いだったのかな。そこにあるってのが分かって、度々借りにいったんです」

■その家の人も音楽をやられていたんですか?

「その方はね、代議士かなんかで、主に演説用なわけ(笑)。でも7インチも使える機種で、ディレイ機能付だったんで、サウンドが豊かになったんですよ」

■多重録音を繰り返して制作したということは、単に音のラフなスケッチを記録するのではなく、完成した音世界を作ろうという意図が最初からあったということですか?

「もちろんラフなスケッチの記録もたくさんありますが、当時は作品を残すことに執着していましたね。デモテープってあるじゃないですか?プロになってから作るやつ。あれは最初からレコード会社のディレクター等に聴かせるためのもので、この頃はそういった発想では作っていなかった。自分の楽曲をなるべくイメージ通りの音で残しておきたかったという感じです。ですから多重録音を繰り返して、ちまちまと時間をかけて作っていったわけ。オリジナルの模型作りと同じ感覚」

■つまり『今日は雨の日です』や『つくり話』は、決してデモテープ音源を集めた作品ではないわけですね。

「そこは一番区別したいところですね。モルダウのアーカイブス・シリーズはデモテープ集ではない。その当時の完結した作品たち、なんです」

■みうらじゅんさんは、高校時代に自分で作った歌をテープに録音し、それに自作のライナーノーツをつけて友達に送ったりしていたそうですが、それに近いものがありますよね。

「僕もそれやってた(笑)。テープ・リールの箱に帯までつけてさ。そこに"遂に発売!待望のデビュー・アルバム!!"ってコピーを書いたりとか(笑)。あと、ジャケットも自分で絵を描いたりして。で、一本作るじゃない? そうすると、その時つきあってた女の子にプレゼントしちゃうわけ(笑)その辺、まったくジョークだよね」

■男友達には?

「一緒に作った連中と何回か聴いて、それで終わりかな。弟もいろんな曲で参加してくれてますが、音楽の話しなど真面目にしたことない。一晩中ストーンズを歌った憶えはあるけど。弟も曲を作っていたんで逆に彼が録音する時には僕が手伝った。とにかく曲が溜ったらみんな家に来てくれ、みたいなノリでしたね。あと、(『今日は雨の日です』と『つくり話』に収録されている曲で)音質が特別いいのは、地元のラジオ局のスタジオで録ったものですね」

■"ラジオ栃木スタジオ"ってクレジットがある曲がそうですね。「今日は雨の日です」と「言葉、失くして」と「つくり話」。これはどういう経緯で?

「60年代後半には"若者の広場"みたいな、そういう若者向けの番組が多くあったんですよ。そこに作品を送ったりして採用してもらって、ラジオ局のスタジオで録音させてもらえたんです。わりと簡単に」

■で、それが番組で放送されると。

「そうそう。アナウンサーが"今日はどこそこの高校のかしぶち哲郎君の作品です"って紹介して、録音した曲が流れるわけ。余談ですけど、「今日は雨の日です」って曲はサンケイ新聞の作曲コンテストに出したんですよ。1969年だったかな、テープと楽譜を送って、それで入選したの。1位になるとそれがレコード化されたんですけど、私の場合は2位だったので、賞金で終わり(笑)。賞金の額は1万円ぐらいだったかな。録音に参加してくれた友達と焼き鳥食べて終わっちゃった(笑)」

■そのように評価されたことが、将来プロのミュージシャンとしてやっていこうという自信につながったりはしましたか?

「励みにはなりましたね。もっと聴いてもらいたいという気持ちがなんとなく。新聞に大きなスペースで顔写真と楽譜まで載っちゃって。でもまだそこでも、将来は音楽家でやっていくぞ、なんてことは夢にも思わなかったですね。ラッキー、ぐらいの感じで」